2011年3月11日
わたしたち家族は
福島県いわき市というところに
住んでいました。

過去記事もよろしければ。

あれから5年
あれから6年
あれから7年


天災に加えて
原発事故という未曽有の大災害。
渦中にいた私たちでも
あれが現実だったのかとは思えない
見えないものへの恐怖は
言葉では説明できません。

屋内退避と言われたわが地域。
当時
「警察官が家に来て
今すぐ県外に出てくださいと言われた。」
とか
「無用な外出は
無用な被ばくに繫がるから
家に居たほうがいい。」
とか
友人同士の間でも
いろんな情報が錯綜して大混乱。

国の指示は屋内退避でしたが
私たち家族は
そこから結果的には1年間と短い間でしたが
自主避難生活を選びました。

このころの私は
まだ絶望していなかった。

まず3月に原発事故があって
1か月も経たない
4月のある日に
学校が始まると連絡が入った時が
初めての絶望。

こんな事故があったのに
まだ原子力をやめない日本。

1年の避難生活を終えて
末っ子を通わせる幼稚園に
挨拶に行ったときに
担任の先生から
「いまだに放射能を怖がる保護者がいるんですよ。」と
言われたとき。

自主避難から
いわき市の自宅に戻った
その2年半後
滋賀県に家族で引っ越しました。

いわき市は
私たち夫婦が生まれ育った場所です。
そこを離れるなんてことは
考えられなかった。

けど
放射能から
子どもを守りながら暮らすことは
とても困難でした。

どうしてなんだろう。

震災前から
添加物は体に良くないから
なるべく避ける生活をしていたし
子どもが小さいときは
加工肉は下茹でしてからとか
野菜もできる限り農薬を落とす方法を
試したりして
気を使っていました。

放射能から子どもをなるべく守りたいという気持ちは
その延長線上にあって
何も特別なことではないのに

農家がかわいそうだとか
福島の人がかわいそうだとか
復興の妨げになるだとか

放射能の問題になると
とても複雑になってしまって

・・・無理でした。


子どもが真冬に薄着をしていたら
もう一枚着せようかなと
思うことと一緒で
(着せなくても風邪を引かないかもしれないけど)
引かせないように予防する。
これって日常的に
子どもを持つ親なら
考える当然の予防策で

放射能に関しても
ほんの少しでも
もしかしたら体に悪いかもしれないから
避けておこう、子どもの分くらいは。

と思うのも
ただの予防策です。

それが
あらゆる場面で
困難でした。

あれから8年。

まだ冷めない夢を見てるような
そんな気持ちはどこかにありながらも
昨年までは感じることができなかった
いつも通りの朝と
少しだけ感じることができるようになったことに感謝。

一番初めに
夫を見送り
雨が降っていたので次女を駅まで送り
末っ子を見送って
長女のことも送っていき
今は
クッキー(愛猫)と
2人きり。
あの日も
クッキーと2人で地震に遭いました。
余震に一番に反応するのもクッキーでした。



あの大災害で
落とした1万5897の命。
1つ1つの魂に。
心からご冥福をお祈り申し上げます。


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2019.3.11   andate365