ご訪問
ありがとうございます。

昨日は
末っ子のことで
たくさんのコメントをいただき
ありがとうございました。

今日もまだ腫れているので
マスクをして登校しました。

……………311……………

あれから5年。

インテリアとは
全く関係のない話です。

ここで震災に触れるのは
一年に一度と
決めています。

よろしければ
お付き合いくださいm(_ _)m

メディアでは
あらゆる観点から
震災、復興について
取り上げられています。

ここでは
わたしの視点から
綴らせてください。

震災が起きたとき
わたしたちは
福島県のいわき市というところに
住んでいました。

わたしは
自宅で一人。
そのときがやってきました。

尋常じゃない地響き。
それから大きな揺れ。

ペンダントライトが落ちて
ほかに何が落ちたか
全く覚えてませんが

後になっては
笑い話ですが何を思ったか
頭だけこたつに入れて
地震がおさまるのを待ちました。

想像したらおかしいでしょ。

それから
当時小学生だった
長女と次女を迎えに
小学校へ。

校庭に行くと
唇を紫にして泣いている子がいたり
先生たちもパニックの中にいました。

幼稚園にいる末っ子のことが
気になって
先生には一言だけ告げて
娘たちを連れて幼稚園へ。

幼稚園までの車中も
揺れが来ると車がバウンドして
前の車も隣の車線を走る車も
上下にバウンドしてるし

水道管は破裂してるし

それはもう
現実とは思えない
なんとも言えない気持ちで
運転していたのを
覚えています。

末っ子を無事に引き取り

我が家へ戻り
テレビをつけたら

つい先日貝殻を拾いに行った
海岸に津波が来ている映像が
流れていて

そこで、はじめて
大変なことが起きてると
気付きました。

でも、とにかく
娘たちは無事でここにいる。
家も住める状態にあったし

大丈夫。

そう思ったのもつかの間で

今度は福島原発が爆発。

悪い夢を見ているようだった。

原発から55キロほどのところにある
我が家は屋内退避と言われました。

けど夫は
爆発したその夜に
とにかくここを出ようと言いました。

戻ってこれない気がして
いやだと言いました。

それでも夫は
しばらく車で走らせて
車中泊したら
また戻るからと説得してくれました。

深夜だったので
寝ている娘たちを起こして
夫は地面を歩かせることはさせず

一人一人を抱えて
車に乗せて

夫の両親も迎えに行って

当時東京で一人暮らしをしていた
夫の兄の家に身を寄せました。

そこから
関東を転々として

放射能汚染の実態が
だんだんわかってきて

わたしたちはすぐに戻らないことを
決めました。

横浜で一年間をすごし
長女が中学校入学となる年に
福島の自宅に戻ることに。

母子避難というのは
「いずれ帰る」ということが
前提で
子どもをとても不安定にさせます。

それと一年間の自主避難生活で
金銭的にも限界に達していました。

でも
福島に戻っても
心に決めていたことがありました。

三年以内に
福島を出る。

どれだけ
もう大丈夫といわれても

原発事故前にはなかったものが
土壌にも空気にも含まれてる。

庭の空間線量を測っても
大丈夫とは到底思えなかった。

同じ線量でも

大丈夫と思う人もいる。

わたしみたいに
よくないと思う人もいる。

外遊びをあまりさせませんでした。

海水浴、公園などは
なるべく遠くへ行きました。

避難先から自宅に戻った年の
初めての夏は
横浜にいる友達を頼って
10日くらい過ごしたことがあります。

これは
横浜から戻って
すぐに書いた日記です。

「横浜保養が終了。
またプチひきこもり生活が始まった。
慣れていかなくちゃいけないんだけど
外でも遊べない
お庭にプールも出せない
海にも行かない
長女はお祭りに
誘われても行かせてあげられなかった
全く異常だよ。
明るい未来を
想像したくともできない。
何を目標に生きるのか。
子どもを守ることで精一杯。
何でも制約して取り上げて
これで子どもを守っていると言えるのか。
心はいつも叫んでる。誰か助けて。」
(お祭りに行かせられなかったのは
食材が気になったからです。)

こんな生活が
ずっと続いていたら
確実におかしくなっていたと思う。

救いとなったのは
同じような思いを持つ
お母さんたちと出会ったことです。

不安なことを話し合ったり
一緒に考えたりできるカフェを
開いたり

市内のすべての学校、幼稚園、保育園の
放射線量を測って
ホットスポットを見つけたら
行政に報告する活動をしたり

わたしは引っ越すことでリタイアしたけど
仲間たちがこれらの活動を
も続けています。

五年。

五年経ったら放射能は
もうなくなったかのように
まるで原発周辺だけの問題かのように
メディアは取り上げます。

去年避難指示が解除された楢葉町には
なかなか人が戻らず
戻ったお年寄りが孤立していると。

戻らない人が悪いかのような
食べない人が悪いかのような

そんな番組の構成に違和感を
感じます。

若い人が戻らないのは
子どものことを思えばこそで

雇用がないからじゃないと
わたしは思う。
修復の見通しが立たない
 原発がそばにあって
事故前にはなかったものが
確実にそこあり

県内の甲状腺ガンの発症率も
どんどん増えているのに

考えるべき問題は置き去りにされて
復興ばかりに光があたる。

そもそもの根底にある
問題をみんなが考えなければ
 いけないと思う。

あれだけの事故があったのに
国はまだ原子力政策をやめようとしない。

これから新しい原発を作ることは
ないと思うから(多分)

老朽化した原発を再稼働させてまでも
原子力を推進していくでしょう。

福島を出たけれど

当時福島県民だったことは
一生変わりません。

今年のカレンダーを
購入して
初めて書き込む予定が

「甲状腺検診」でした。

一気に
現実に引き戻されて
泣きました。

どこに住んでいても
近くに原発はあると思います。

地震の備えとともに
自宅に
一番近い原発はどこになるのか
確認しておいてください。

こんな思いを
もう二度と
誰にもさせたくないから。


滋賀に引っ越す前に撮った空。

滋賀に引っ越すことを
母に話して

言葉を尽くそうと

五枚の便箋に
思いと決心を綴りました。

母は
本当に本当に
ショックを受けて
がっかりして

でも二日後
届いた手紙には

「あなたたち夫婦が
子どもたちの事を
第一に考えて
出した決断に
反対する理由はありません。

お母さんは
そこまで子どものことを
考えて育てたことあったのか?
考えさせられました。

あなたを誇りに思います。」

泣きながら書いたんだと
一目でわかりました。

住んでいた家は
結婚して割とすぐに
建てました。

長女が初めて歩いたのも
次女、三女が生まれたのも
じい、ばあを招いて
ことあるごとに
いろんなお祝いをしたのも
あの家でした。

ここに載せたかったけど
まだあの家の写真を
見るのは辛くて探せませんでした。

手放す直前
ハウスクリーニングの査定にきた方が

あまりにきれいな状態で
びっくりされました。

「この13年、大事に住まれていたのが
よくわかる。」

その頃
夫は一足先に滋賀にいたので
そのことを
メールで伝えて

久々に嘆いたのを
覚えています。



毎年かかさず
参加していた自治会主催の夏祭り。
この時が最後。


近所の駄菓子屋さん。
思い出がたくさん。
娘たち3人とも
大好きな場所。


きょねんの311にも
同じ画像をインスタでpostしました。

次女とお友達
お別れの日です。
今は帰省する度に
お泊まりさせてもらってます。


2014年10月
滋賀に引っ越して来ました。

自然が豊かで

景色がきれいです。


滋賀で初めて迎えた
去年のお正月。

雪が積もりました。


下見に何度か滋賀を訪れていたころ。
ようやく住む家が決まり

琵琶湖に
これからよろしくね」って
挨拶しました。

今日も琵琶湖を
見てきました。

実はまだ海や水のそばが
怖いです。

でも
「これからもよろしくね」って
お願いしてきました。

琵琶湖は
わたしにとって
滋賀のお母さんです。

最後まで
読んでくださり
ありがとう。

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